顕嵐担10周年を迎えた5月に書いて、もっと削りたいな~と思いつつどう切るべきかきめられなくて、なんとなくタイミングを失ってそのままにしてたもの。
読み返したら思ったより文としては成立していたので、誕生日記念(自分の…)として残しておきます。5月時点の内容なので時系列はご愛嬌です。
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【2012年】
よくわからないけどJr.情報局に入ったらよくわからないけどPLAYZONEというやつの案内が来て、とりあえずこれを申し込んだら顕嵐くんを現場で見れるようだったので適当に申し込んだらガバガバ当たって焦りました。当日幕が開くまでPLAYZONEが何なのか本当に全くわかっていなかった。
Jr.担スキルが低すぎて、せくしーぞーんを1回見たいな~と思って申し込んでいたSUMMARY、顕嵐くんが出る可能性なんて何もわからなくて、とりあえずえびサマリーに出てるから探せ!と教えてもらってよくわからないなりにはじめてTwitterで取引して1公演だけ入って、ガーンと頭を殴られたような衝撃を受けた。中3ってこんなに見る度違うの??????と思った(もっと増やせばよかった…)。セクサマはちゃんと増やして、よろよろしているうちに少年たちへの出演が決まり…顕嵐担としてやっていく覚悟みたいなものがきちんと醸成される間もなく(?)現場に引きずられていった気がします。
【2013年】
顕嵐くんはセクバとトラジャを掛け持つんだと勝手に思っていたら全然そんなことなくて戸惑いの日々。みやちかとのお別れさえ覚悟していた時に突然決まった、人生で初めての単独コンサート。そして、きっと一生最高の現場。あの高揚感と緊張。2013年はもやもやしたことが多い年だったけど、クリエのことを思い出せば乗り越えられた、そんな宝物みたいなライブ。
【2014年】
いちばん通ったプレゾンがなぜか日生プレゾン…なので、日生プレゾンにめちゃくちゃ思い入れがある数少ないであろうおたくの一人。燃え尽きる間もなくずっと願っていたセクバでのお仕事やらなにやらが降ってきて、通称「進撃の顕嵐」(通称なのか)。
ずっとずっと切望していたじぐいわあらちかをまた少クラで見れて、キンキ歌った時動悸がやばかった。というか姿かたちも見えないのにじぐいわあらちかをTwitterのヘッダーにしてた私、普通にキモい厨でウケる。セクボは光!
【2015年】
骨折!からのガムパ!からのチーム覇!からの暇!
自担の降板を公演2日前に知らされ、結局1公演も出演しなかったの、今考えても普通にえぐくて辛い。ガムパはあらちかの澱みを洗い流すいい公演でしたね…からのチーム覇…これも一生忘れられない大切な思い出…(そういえば間のクリエで1回ブチギレてる)(クリエは大体毎年キレてる)
ほんとガムパからのチーム覇、ずっとたのしいしかなくて最高だった…チーム覇クリエやってって一生言ってた。
夏終わってからは仕事がガムシャラ(準レギュラー)しかなくて、明星に暇とか書かれてこれまたキレた記憶がある。確か交差点がこの冬だったので、今後は9人メインで活動するのかと思っていた。病んだ。そういえばマッチバックはめちゃくちゃいい仕事だった。
【2016年】
デビューするかと思われたキンプリも膠着状態だし、顕嵐くんは仕事ないし、もやもやする~~~とごねていたらクリエがマジで9人。あーーーこれ今後マジで9人で仕事すんの???と思っていたら公演内容が結構しんどくて荒れる。そしたらなんかLove-tuneクリエにいて世間が荒れてた。
移籍、その前数年にわたって、Jr.で現存するユニットから現存するユニットへ完全移籍した人が顕嵐くん以外いなかったので、割と普通にざわついた記憶があります。(既存ユニに途中加入とか、くくりが自然消滅して新しいユニが結成されるとかはあったけど)
【2017年】
2月に魔女宅が発表され、Jr.祭りになぜか金髪で来て大騒ぎし、この年のクリエは割と安定していたような記憶があり、あれよあれよという間に魔女宅。この年はサマステもすごくよかった!
個人仕事もたくさんあって、顕嵐くんの第二の脂乗り期みたいな印象があります。(その分島のやる気が2%くらいしかなくて割としっかり萎えましたが…まあいいよ島だし…)翌年に映画も決まって、割と希望があったなー。楽しかった。
【2018年】
年始からずっと不穏だったので、まーーー怖いっちゃ怖かった。引退みたいな結末は想像してなかったし、まあ事務所の中で上手いことするだろう、そのためには少なくとも年内は動きないだろうなーと思っていたので、11月に辞めることになって、ちょっとびっくり。
【2019年】
どうするんでしょう~と思っていたらインスタ開設で大騒ぎ、からのひるキュン、からの…怒涛。8月30日の銀劇、忘れられない思い出をきみがくれたよ!
年間を通して全体的に何が起きてるのかよくわかんなかったけど、いちばん意味分かんなかったのは上海のファンミ。本人たちもよくわかってない感じで笑った。上海旅行は楽しかったです。
ヒプステ、行く度アドレナリン出まくって興奮で寝れなかったくらいずっと楽しかった。ぎみざまいくがやっぱりいちばん!からの家、からのラジパと畳み掛けの年末で非常に元気でした(私が)。
【2020年】
FFBEのキャパがおかしいことにキレてたらコロナ来て全部なくなっちゃってそれはそれで落ち込みました。円盤すごい良いので持ってない人ぜひ買って欲しい。
あの時期インライが変な時間で辛かった。城田とインスタライブ始めたのは面白かったです。おかげでアクターズリーグも出れたしね!(おかげかどうかはしらん)
【2021年】
track4が楽しすぎてメルパルクの2階で号泣したりしてた。福岡もちょーたのしかった!びおぴまでは死ねない!って言ってたら結構すぐ8月になっちゃいましたね。オクトーバースカイ、なんでこんなぱきっとしたミュージカル仕事を顕嵐くんが!?ってずっと思ってた。武者修行、演出が良かった。
【2022年】
track5の記憶がもはやあんまりない。代々木、そこそこちゃんと埋まってて安心しました。ツーアウトフルベースが思いの外面白かったというのが個人的に結構嬉しい出来事でした。映画初主演おめっと!
…とまあ。
経っちゃったなあ。実感があるようでないような、10年。
この子だ、って必死で目で追って、少ない情報調べて。
とりあえず名前でGoogle検索してみるんだけど、おたくの個人ブログ数件しかヒットしなくて、なんならTravis Japanで検索すると謎の旅行会社みたいなのがトップに上がって「このグループは存在する…でいいんだよね…?」って不安で、その解決の仕方も知らなくて、そんな頃から10年。
振り返って思い出すのは、払いきれないほど当たったプレゾンの入金に右往左往していた大学の最寄りの郵便局のATMとか、昼夜間に時間潰すところなさすぎてあてもなく歩いた灼熱の西麻布とか、オタクと揉めて仲裁に入ったオタクが泣きながら電話かけてきてなんかもうぐちゃぐちゃだった冬の夜とか、そんなことばっかりで、たぶんコンサートよりそういうことのほうがずっと色濃く記憶に残ってる。
まあ、そんなもん、なのかもね。
10年経つと、そして追うのにまあまあパワーのいるJr.担をしていると、顕嵐くんのファンでいるということがもう自分のアイデンティティのひとつになっていると、最近とても思う。
「アイドルに依存しないで、自分の人生を送ってくれ」「アイドルを見るためだけにお金を稼がないでね」みたいなことを自分から言うアイドルって最近一定数いると思うんだけど、別にそういうことでもなくて、もうこれだけ続けていると、私の中に彼の存在が組み込まれないほうが無理で、それは当人たちからすると割と不健全で恐ろしい状態なのかもしれない。
けど、それはもうそういうもの、なので。きちんと体の一部として問題なく動作していますよ~あなたのせいで不健康になったりしませんよ~(なったとしても普段の風邪みたいに自分でメンテナンスするから大丈夫だよ~)と逆に言いたくなる感じが、ある。
だからこの10年を振り返ったときに、自然と自分の人生や生活、感情に紐づいた思い出が鮮明に思い浮かぶのは、とても納得できること。コンサートにいるときは一種のトランス状態みたいなものだと思っているから、すべてをクリアには覚えていられないので。
だからもう、今となっては、君が好きなように生きてくれれば、なんでもいいな。
別に行動のすべてを肯定するおたくじゃいられないけど、気に入らないことがあったとしても、顕嵐くんというアイドルそのものを嫌になることはないし、なれない。
だって、顕嵐くんのファンでいる、ということが自分のアイデンティティの一部なら、顕嵐くんを嫌になることは、自分の体の一部を否定したり切り離したりすることと変わらないから。そんな痛いこと、もうできない。
初めてのクリエでつくったうちわ、もうだいぶ汚れたけど変えられなくて、補強しながら今も使っています。メンカラなんてない時に作ったから、当時仲の良かったお姉さんに分けてもらったカッティングシートで作った、全然関係ない配色の。
最初の頃は定期的に変えてたアカウントのID(そもそも今のアカウント自体2代目)、顕嵐くんが踊るYa-Ya-yahのstompin'がすごく好きで今のに固定して、いつかデビューしたらアカウント名変えよう、なんて話してたらここまで来ちゃったよ。
名前も、最初からくらげだったわけじゃなくて、クラゲの写真をアイコンにしてたらフォロワーさんにくらげちゃんって呼んでもらって、そこから。
そういえば今使ってるCANONの防振双眼鏡、そのフォロワーさんとよく会ってた初演JWで使い始めて、あれも今年で10年。絶対買い替え時だよね…塗装はげて手がベタベタするもんね…
そう考えると、顕嵐くんのファンになった頃からずっと手元にあるものってないかもなあ。あれから6回引っ越しをして、仕事も生活も変わって、家具も洋服も持ち物もどんどん捨ててしまった。
ちなみに、本当に顕嵐くんのファンになった最初の最初から知っていて、今も付き合いがある唯一の友人は去年、ママになりました。お互いオタクもプライベートもあんなにめちゃくちゃに好き勝手して、深夜に長電話してた、うちに泊まって大学行ってる間に洗濯物してくれてた、なつかしいね。
11年目のスタートの日は、幕張にいました。
10年経っても新しい会場にまたいけるなんて、ゲームの解説してるところ見に行くなんて思ってなかった…って言いたいけど、別に顕嵐くんの未来を一つの形で予想したことなんてなかったし、ずっと新しい経験させてくれる人って思っていたから、ある意味では予想通りの未来なのかも。
これからもずっと、新しい景色を見せ続けてくれる。それを疑ったことはない、ので。この先もどうか、変わらない顕嵐くんと同じ夢を見ていられるように祈っています。